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​プロテイン(たんぱく質)粉末をドリンクに追加してから一ヶ月が立った頃に血液検査をしたらタンパク質の値が上がっていた。あいかわらず歩行が安定しないのと、咳がよく出ていたので、1ヶ月ほど前からアルダクトンという薬をごく少量(朝食時に半錠)飲ませることにしてみた。薬のおかげかどうかは分からないが、咳もあまり出なくなり、調子の良い時は歩行もヘルパーさんの手引きだけでできるようになった。トイレに行って大便をすることもあった。排便は数日おきに定期的に出ており、下剤などは使っていない。

 

ヘルパーさんは毎日複数回来てくれている。曜日によっては3回来る日と2回来る日がある。ヘルパーさんがいる時間も増やしてもらった。以前はヘルパーさんの滞在時間は30分か1時間だったが、今は必ず1回1時間いてもらって余裕を持って排泄や食事の世話をしてもらっている。それでも介護5の母の出費は前と変わりなく、月額5万円以内に収まっている。ヘルパーさんは訪問時には必ず母をベッドから出し、どうにか手で支えながら室内を歩かせたり車椅子を使って移動させたりしていた。

ついに天国へ旅立つ

​98歳の誕生日から約3ヶ月半後、宇宙に抜けるような青空の2020年11月27日の昼に母は逝った。

その一週間前から食欲がなくなり、飲み物を口に入れるのを嫌がった。ほとんど飲み物を口にしない日が3日ほど続いたので往診の医者にお願いして点滴の実施を開始した。母にとっては初めての点滴である。点滴を開始すると少し元気になり飲み物を口から少し飲むようになった。点滴の袋を付けながらお風呂にも入った。

 

死亡前日の11月26日夜に母宅に様子を見に行くと、母は今までに見たこともない苦しそうな息づかいをして寝ていた。その日のヘルパーさんたちは母に「お汁粉」や「甘酒」をコップ1杯〜半分も飲ませていたので私はあまり心配はしていなかった。しかし点滴の袋が全部空っぽになっているのに気がついた。それも2袋全部。昼頃にはほぼ2袋とも満杯だったので、6時間位の間に2袋(1000ml)も一気に体に入ったことになる。その影響を心配していたところ、深夜になると痰のからむ咳も出てきて苦しそうな呼吸をしていた。夜中に何度も起きて、前日に初めて使い方の講習を受けた痰の吸入器を私はおっかなびっくり使わざるをえなかった。

 

翌朝は初めての訪問看護師の訪問が予定されていた。看護師さんに様子を見てもらったところ医者を呼んだ方がいいということになり、医者の往診を午後に予約し、私は1時間ほど外出した。そして昼頃に母宅に戻ってくると母は死んでいた。最初はいつものように眠っていると思った。苦しそうな呼吸も治って良かったと思った。しかし近寄ってよく見てみると母は呼吸をしていなかった。体はまだ温かく顔色もいつもの通りだった。私が外出をしていた1時間ほどの間に誰もいない自宅で母は一人で天国へ旅立った。一人暮らしが大好きだった母らしい逝き方だった。

母が希望どおり最後まで施設や病院に行くことなく自宅から天国へ旅立つことができたのは「めでたい」ことだった。葬式は「98歳の誕生日おめでとう」の写真を掲げ、母がリクエストしていた「千の風になって」を流し、母の自宅に子供や孫が集まり明るく楽しい葬式をあげることができた。母は自分が棺桶で着る服をちゃんと生前に準備していた。棺桶に入れてもらいたい物(看護師資格の4種類の免状)も用意していた。お経を上げてもらいたい近所のお寺の名前も書いてあった。全部母の希望通りにできた。

あとは春になったら母の希望どおりに海に散骨するのみ。母は横浜港から出る散骨用のチャーター船ももうすでに予約して費用も納入済みであった。

「手抜き介護」のすすめ

 

母が87歳で認知症と診断され98歳で息を引き取るまでの11年間、私は自転車で10分ほどの所にある母の家に毎朝通って母の様子を観察し続けた。人間はどのように老いていくのか、どのように認知症が進行していくのか、どのようなニーズが生まれ、どのような解決策があるのか、老いの過程は十人十色で人それぞれ違うと思うが、母の場合をこの目でつぶさに観察し続けることができたのは、私にとって自分のこれからの避けては通れない老後の準備をする上でも十分過ぎるいい勉強になった。「老いる」とは「認知症になる」とはどういうことなのかを母は自分の体で私に教えてくれた。

その11年間の介護生活は人が思うほど私にとっては大変なものではなかった。私はフルタイムで仕事を持っていたが介護と仕事の両立は問題なくできた。というのも私の介護はいわゆる「手抜き介護」だったからである。私は小さい時から家事の手伝いは大っ嫌いで「女としては失格」と母からはいつも文句を言われながら育った。その反発もあってか、私は結婚も出産もしたが、大学を出てから現在60代になるまでずっとフルタイムで職業を持ち続けて来た。だから一人暮らしをしている母の介護をすることを決めたときも、仕事と両立するやり方でやることしか最初から頭にはなかった。外部のサービスは使えるだけ使う、先端的なテクノロジーは使えるだけ使う、私は最低限の時間しか母宅にはいない、というのが基本的な条件だった。

母が生きていた最後の1週間だけは私は母宅に泊まったが、それ以外は毎朝の2時間ほどを母宅で過ごすだけであった。私の仕事が休みの日はなるべく長く母宅に滞在し、髪を切ってあげたり、衣服や食材を準備したりした。どうしても私が東京を離れなければならない時は、介護ヘルパーさんに追加で来てもらい私の朝の仕事を代わってもらうことが可能だった。私が母宅にいる朝の2時間の間に母の1日分のミキサー食の準備をし、母に朝食を食べさせ、風呂やマッサージや往診などの対応をした。その後就寝までは、いつもの介護ヘルパーさんが1日に数回入れ替わり立ち替わり母宅を訪れて母の面倒をみてくれた。着替えも爪切りも全部ヘルパーさんやお風呂スタッフがやってくれた。お風呂サービスにはベットのシーツの交換も含まれていた。私は家中に監視カメラを設置して母の様子を外から時々観察していた。兄と弟にもカメラ映像は世界中何処にいてもいつでも見れるようにしたので、私が気がつかない時に母が床に倒れているのを弟が発見してくれたこともあった。必要ならば母宅の室内の温度をチェックしエアコンを起動させたり、テレビをつけたり、室内灯をつけたり消したりすることも遠隔操作でできるように先端テクノロジーをフル活用した。

手抜き1

1日の滞在時間は朝の約2時間のみ。

手抜き2

食事は全部ミキサー食。朝1回まとめて1日分を作る。食材をミキサーに入れてガーとやるだけ。

味は季節感を出し、美味しく、かつ飽きないようにいろいろ工夫をする。

手抜き3

着替えはすべてヘルパーさんや風呂サービスにやってもらう。

手抜き4

母が使う部屋(ベッドルーム、リビング、座敷、廊下、トイレ)の掃除はヘルパーさんにやってもらう

手抜き5

母のベッドシーツや枕カバーの交換は風呂サービスにやってもらう

手抜き6

手足の爪切りや耳掃除などは風呂サービスにやってもらう

手抜き7

朝食以外の食事の介助はヘルパーさんにやってもらう

手抜き8

全身マッサージを1日おきに在宅でやってもらう

時々私が手のマッサージをしてあげる

手抜き9

オムツの交換やトイレへの誘導はすべてヘルパーさんにやってもらう

手抜き10

​風呂は訪問入浴で全部やってもらう。

母が教えてくれたこと:

認知症の始まり:

認知症は、時間や場所がわからなくなることから始まる。うっかり曜日や日にちを間違えることは認知症になっていなくても時々あることかもしれないが、それがかなり頻繁におこったり、自分の現在いる場所がどこであるかがわからなくなったり、近所で道に迷ったりすることがあれば認知症の発症を疑った方が良い。認知症の専門医で自身も認知症を発症した長谷川和夫医師も「自分の認知症は日にちや曜日がわからなくなることから始まった」とテレビ番組で述べていた。少しでも自分で気になることがあれば、すぐに専門の医師に診察を受けた方がよい。早く治療を始めれば早く進行を遅らせることができる。日進月歩で認知症の治療薬の開発も進んでいる。認知症の初期症状は本人が一番早く気がつくはずである。いや、初期症状は本人しか気がつかないのである。

認知症の進行:

 最初はゆっくりとした認知症の進行具合でも、ある時期から急にどんどん加速的に進行する。ちょっと前まで問題なくできていたことが出来なくなる。昨日まで覚えていたパスワードも思い出せなくなる。母は機械の操作が最初に苦手になった。銀行ATMでの現金の引き出しが出来なくなり、リモコンや携帯電話や複雑な電気製品などの操作が出来なくなっていった。マンションのオートロックの解除操作が出来なくなる、ワッシュレットが使えなくなる、エアコンの温度調整が出来なくなる、風呂の追い焚き機能が使えなくなる、電子レンジの操作がわからなくなる、テレビのリモコンが使えなくなる・・・すべてのリモコン操作ができなくなった。もちろん初期の段階でガス調理器具の使用は停止した。

 87歳〜94歳までの初期〜中期の頃は記憶力は少々おかしくても母はよく笑っていたし、何だかんだと自分から「おしゃべり」をして普通の生活を営んでいた。しかし95歳を過ぎて後期に入ると母の顔から笑顔が消えた。同時にこちらの言っていることが理解できなくなり、何か話かけても犬のように首を斜めにかたむけじっとこちらの目をみて首をかしげていることが頻繁に起こるようになった。自分から話すことをやめた。一言二言を促されて発することはあっても自分から「おしゃべり」をすることは全く無くなった。後期に入ると一日中ラジオを聴きながらベッドで寝ている時間が増えた。母は最後まで自分の口から食事をとり、完全な寝たきりにはならなかったが、歩行が安定しなくなるのと同時に心臓が弱り始めたのは老衰死する2ヶ月前くらいだった。

 認知症が進行していくと、食べること、排泄すること、風呂(体を清潔に保つ)に入ること、の生きることに大切な3つのことが徐々に出来なくなっていく。認知症の初期の頃は食材の買い物も問題なく出来、調理もできるし普通の物を食べることができる。しかし、だんだんと買い物に出るのを嫌がるようになり、調理や台所仕事を面倒がるようになる。

 

 多くの場合、普通食が食べられなくなるのは歯が使えなくなったり嚥下障害が起きるからである。大正生まれの母の世代では総入れ歯が流行ったらしい。母の話によると、昭和の中頃では、60代を過ぎると健康な歯を抜いてまで皆こぞってパーフェクトな歯並びの総入れ歯を入れたらしい。その頃は、総入れ歯という義歯が90代の老人にはどんなに管理しづらいやっかいな物になるかを想像もしていなかったようだ。長い期間を総入れ歯で過ごしてしまった老人は、歯茎が後退し柔らかくなってしまうので、入れ歯無しでは歯茎が痛くて固形物が食べられなくなる。総入れ歯にしなかった老人は歯がなくなっても固形物を歯茎で噛んで食べれるくらい歯茎が鍛えられて硬く丈夫である。総入れ歯の老人は入れ歯が入れられなくなり固形物が食べられなくなると、ミキサー食というドロドロの物を飲むという食事方法に変えなければならない。

 

 そして歯がダメになると次は嚥下活動が出来なくなる。口に食べ物や飲み物を入れてもゴックンと飲み込めなくなるのである。そんな誰でも無意識にできるゴックンという当たり前の喉の動きが出来なくなるなんて若い人は想像もつかないだろう。でも老人はこの嚥下活動が確実に出来なくなるのである。嚥下機能の低下が見られたら早めに口腔リハビリをしっかりすれば嚥下能力はかなり回復させることができる。この嚥下活動が出来なくなると、口から食べるということが出来なくなり、チューブで鼻や口から食事を入れたり胃瘻という方法で栄養を補給しなくては生きていけなくなるのである。体にチューブが付けられると生活の質が完全に低下する。

 

 食べることの問題が起き始めると、排泄の問題もほぼ同時に起きてくる。それまで一人で問題なくトイレに行けていた老人が、排尿や排便のトラブルを頻繁に起こすようになる。トイレに間に合わず途中で失禁する、寝床で失禁する、排泄した後の処理が不完全で便や尿で衣服や周りを汚す、自分がトイレにいると勘違いしてトイレ以外の場所に排便や排尿をしてしまう・・・・・排泄トラブルが1回でも起きたら、早めにまずパンツ型のオムツの着用を促した方が良い。パンツ型のオムツは普通のパンツ感覚で下着のように自分で着脱できるので、オムツをつけたことのない老人にとってもそれほど抵抗なく導入できる。

 

 もう一つ同時に起こることがある。それは一人では風呂に入れなくなるということである。まずは風呂に入ることを拒否するようになる。何ヶ月も風呂に入らなくても平気な顔をしている。脱衣所で一人で着替えるのが難しくなってくるらしい。新しい着替えを揃えたりするのも頭が混乱して出来なくなるらしい。バスタブを片足でまたいで出たり入ったりするのも簡単には出来ないらしい。湯船のお湯の温度調節の仕方も忘れてしまってどうしたらいいのかわからなくなる。髪や背中を洗ったりするのも一人では無理らしい・・・とにかく「風呂はいい」と言い出したらアルツハイマー突入である。

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