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認知症の母を自宅で看取る

写真:認知症になってから8年目の母、次男が忘れていった帽子を被っておどけてみせる。

87才で認知症と診断され、

94才で話すことをやめるまで

​..........そして

98歳で逝く

母は大正11年に樺太(サハリン)で生まれ、北海道大学看護学校を卒業した看護師だった。札幌で父の医療クリニックを側で手伝いながら3人の子供を育てた。

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母は75才の時に札幌から私の住む東京に引っ越してきた。引っ越しの計画はすべて自分で立て、自分からすすんで私の家のそばに移り住んできた。私の家から自転車で10分ほどの距離の所に小さなマンションを購入し、一人暮らしを始めた。父が他界してから5年後のことである。東京で新しい生活を始めて75才から85才までの最初の10年間は何の問題もなく、母は悠々自適の東京での一人暮らしを楽しんでいた。日本橋のデパートや築地市場に一人で出かけたり、大好きな本屋や図書館に通ったり、美術館をめぐったり、お芝居やコンサートに出かけたり、北海道の友達が何人も訪ねてきて自宅に泊めたり、などなど・・・東京や横浜を自由自在に一人で歩き回り暮らしを楽しんでいた。

 

87才になったある日のこと、母の家を月に一度話し相手として訪ねてきてくれていた民生委員の方から私に電話が突然入った。「お母さんと一緒に近所を散歩している時に自分がどこにいるかわからなくなってしまったようだ」と。「これは認知症の兆候からもしれないので、報告した方がいいと思い電話しました」と。これにはショック。とうとうきたかと思った。民生委員とは地域ごとに老人の見守り役をしている自治体から委託を受けて仕事をしている同じ地域に住んでいる人々である。好むと好まざると65歳を過ぎた老人は皆この民生委員の訪問対象リストに載ることになる。75歳を過ぎた一人暮らしの老人の場合は、この民生委員の方の定期的な訪問があり「何か困ったことがないか」を聞いてくる。「余計なお世話!」とドア口で拒否されることも多いらしいが、一人暮らしの母の場合は、この時々訪ねて来る年配のご婦人の民生委員の方ととても仲良くなり、月に一度くらいは一緒にお茶を飲んだり散歩をしたりしていた。

これをキッカケに病院での検査をすすめると、母は素直に応じた。85才を過ぎた頃からいろいろなショックなことがたびたび起こって母は自分でもうすうす「何か変だ」と気がついていたようだが、私には一言もいわずに2年ほどが経過していたことがわかった。この85

〜87歳の2年の間に、母は札幌へ2回も長期滞在の旅行に行ったり、初めての携帯電話を持ったりもしていた。住み慣れていたはずの札幌で道に迷ったり、携帯電話の使い方がわからなくなったりしていたようだ。そして、病院で認知症と診断された時は87才になっていた。自覚症状はその2年くらい前の85才ごろから出ていたようだ。検査結果はアルツハイマー型認知症で、まず「アリセプト錠」が処方された。ここから、ケアマネージャーさんとの長いおつきあいが始まった。

どんなに自立して健康そうに見えても、​認知症の診断書が出ると最低でも要介護1の認定が受けられる。まずは最寄りの「地域包括支援センター」という所に相談し、本人面接や診断書の提出などを経て要介護1〜5、要支援1〜2のどれかにランク付けされる。これを介護認定という。この介護認定ランクによって安価に受けられるサービスやその頻度が決まるので、担当のケアマネージャーさんと相談しながら今後のケアプランを決めていく。介護認定は症状が悪化するごとに再認定を受けられるが、何も変わらなくても6ヶ月おきに受ける。

要介護1の認定をうける

​   (87才)

しかし、アルツハイマーの診断がくだって要介護1の認定を受けても母はいたって元気で、一人暮らしはどうにか続けて行けそうだった。

88才になった年、子供や孫たちが近くのレストランで母のために米寿祝いの食事会を催すことになった。しかし、その時、几帳面な母が初めてドタキャンをして皆を驚かせた。食事会に皆が集まって待っているのに、どんなに説得しても母は出席しようとしない。母を自宅まで迎えに行くと、よそ行きの服を着て外出する準備は万端ととのっているにもかかわらず、ガンとして「行きたくない」と言う。しょうがないので、母抜きで米寿祝いの食事会を催した後、孫たちは母の自宅を訪問し、お祝いの言葉やプレゼントを捧げた。

調理にガスの使用は危険。母の台所のガスコンロは使用を中止。三個のコンロの上に木製のカバーを作りコンロを全部使えなくした。ガスは元栓を切り、木製カバーの上に電気調理器を1台置いた。料理をあまりしなくなった母にはこの電気調理器1つで十分だった。

同じ頃、掃除が得意でいつも隅々まできれいに磨き上げていたはずの母の台所から「うじ虫」が大量に発見された。流し台の排水溝の中や三角コーナーの中から。母の家の中に「コバエが増えたなあ」と思っていた矢先だった。それまで家事は全て母が自分でやっていたが、それからは、私も時々母の台所はチェックするようにした。そうすると、乾燥食品などをストックしている棚の中にもたくさんの「虫」を発見した。もう母に家事を全部委ねるのは限界であると感じた。

自分から外出を控えるようになってきた母を見て、ケアマネージャーさんがデイケアに通うことを勧めてくれた。最初は楽しそうに通っていが、通い始めて6ヶ月を過ぎた頃に突然「もう行きたくない」と言い出した。理由を聞くと「習字の先生が気にくわない」と。

デイケアは中止になり、認知症の薬はメマリーに変更になった。

89才になった頃、セブンイレブンの弁当配達サービスを始めた。私が母の要望を聞いてインターネットで注文を出すというやり方。食品の種類も豊富で毎日同じ時間に配達にきてくれるのと、金銭のやりとりがないので安心して続けられるサービスだった。

 

91才の頃、弁当配達のサービスの中止を余儀なくされた。ある日、セブンイレブンの配達の人から私に電話があり、「このところ何回も続いているのですが、お母様はオートロックの開け方がわからなくなり、来訪ブザーが押されると自分で走って家を出てエレベーターに乗り、一階のマンションの入り口まで弁当を受け取りに来るのです」と。それから母にオートロックの開け方を何回も教えてみたが、すぐに忘れてわからなくなってしまうようなので、セブンイレブンの配達は中止せざるをえなくなった。あわてて走って転んで骨でも折ったりしたら一大事だ。

それからは、私が毎朝母の家に行き、コンビニで買った1日分の食物をテーブルの上に並べて置くようにした。母は自分で好きな物を選んで食べていた。弁当やパンの包装も問題なく自分で開けることができていた。食べ物はコンビニで売っている普通のものを食べていた。

寿司、親子丼、幕の内弁当、揚げ出し豆腐、天ぷら蕎麦、グラタン、

クリームパン、あんパン、ロールケーキ、プリン、ヨーグルトなどが好物だった。

 

91才の母の一人暮らしは続いていた。ほとんど外出はしたがらなくなって、徘徊の問題も起こしたことがなかったが、しかしある日、母は警察署に保護されてしまった。帽子を被り外出用のコートを来てハリキッて家を出た母は、家の前でタクシーを拾ったらしい。タクシーの運転手に告げた行き先は「秋田県」。母の長男が住んでいる所。変だと思ったタクシーの運転手はそのまま警察署に直行、母は警察に保護された。2人の警察官に両腕を支えられて家に戻ってきた母は、まるで勝ち誇ったかのような笑みを浮かべていた。警察官が笑いをこらえながら私に所持品の確認・返却をしてきた。母の持っていたバッグの中に入っていた所持品はダイコンの切れ端が1つ。

 

警察に保護されたあと、外出願望があるのでは、というケアマネージャーさんの勧めで1泊ショートステイを始めてみたが、3ヶ月も続かなかった。最初は自分でも納得してショートステイの利用を始めたが、ステイ先では荷物をまとめてエレベーターの前に立って帰ろうとする姿が毎晩目撃されていた。この頃から自宅で風呂に入るのを拒否するようになったので、ステイ先で風呂に入れてもらおうと、お風呂を勧めてもらっても堅く拒否。「自分の家に風呂があるのに何でこんな所で風呂に入らなければならないのか!」と怒り出すしまつ。最後のショートステイの迎えの車が来た時には、「もう騙されない!」「出て行け!」と興奮して怒り出した。これでショートステイは中止することになった。

 

この頃の夏前に、エアコンを新しい機種に買い替え、外部からリモート操作ができるようにした。夏に30度を越える室内で母はエアコンを使わずに過ごしていることが頻繁にみうけられたので、外部からでも室内温度をチェックでき、かつエアコンのコントロールを外部からも行えるようにした。

同時に、全ての窓を二重窓にして断熱効果を増して室内温度のコントロールを行い易くした。

 

​家の中4カ所に監視カメラを取り付けた。スマホで24時間どこからでも様子を見れる。

海外からも見れる。兄弟3人で見ている。

 

家にWifi環境さえ整っていれば、外部から遠隔操作で電気製品をコントロールすることが簡単に可能。赤外線を使用するリモコンがついている電気製品なら何でもスマホを使って遠隔操作をすることができる。エアコン、テレビ、室内灯、ラジオ、扇風機など最近の電気製品にはほとんどリモコンがついている。この遠隔操作用のユニットは家電量販店で1万円以下で買える。

 

アプリケーションをスマホにインストールし、遠隔操作したい機器のリモコンを1台づつ登録していく。スマホさえ使えれば誰にでもできる簡単なセットアップ。監視カメラも家電量販店で1万円以下でカラー映像が映るものが買える。2万円くらい出せば音も聞こえ暗闇でも見えて角度もコントロールできるものが買える。母のベッドルームだけには、このやや高級なクラスのカメラにして消灯後も母の寝顔を確認できるようにした。カメラは電源さえ取れればどこにでも設置が可能。時々赤や緑のランプが点滅している小さな白い箱のカメラを見て、母が「これ何?」と聞いたことがあったが、「火災報知器」というと納得してそれ以上聞いてくることはなかった。

 

 

 

 

92才になると、1日中ぼーっとテレビを見て過ごす時間が多くなった。窓の外の景色をずっと眺めたりして過ごす1日もあった。大好きだった読書はまったくしなくなった。得意だった料理や針仕事もしなくなった。しかし、時々新聞を読むフリをしていた。

シロスタゾールの投与を始めた。メマリーも継続。

四国の医師が発見したというシロスタゾールの認知症に対する効果を期待して、母にもシロスタゾールの投与を始めてみた。認知症の薬と脳血栓予防の薬であるシロスタゾールを併用すると、認知症の進行がスローダウンするのではという報告を

テレビで見た。

半年ぶりにやっとお風呂に入ることに同意した。

お風呂の介助をしてやることで、一人ではもう入浴ができないというのがわかった。湯船を片足で一人でまたいで出入りするのが困難であるとわかった。足が上がらなくなってしまっていた。洋服を脱いだり着たりが一人では一苦労というのもわかった。また、新しい着替えを自分で用意することが困難であることもわかった。母が自分一人ではもうできない事がたくさんあることに私は初めて気がついた。久しぶりの風呂で背中をごしごし洗ってやると「気持ちいい」を連発した。

この頃出来ること:

カーテンを開けたり閉めたりする。朝、顔を洗う。草木に水をやる。食べた食器を流し台へ片付ける。テレビをつけたり消したりする。

ご飯をフライパンで炊いた。電子レンジで芋を料理(失敗)、カップラーメン作る(粉末スープ入れ忘れる)、林檎や梨の皮を包丁で剥いて食べる、レジ袋をたたむ。

92才、長男の誕生日だけは覚えているが、私や次男の誕生日は覚えていないと言った。自分の誕生日は覚えている。朝食には毎朝納豆を食べている。食べる物はまだ普通食。

天ぷら、コロッケ、寿司、何でも食べる。鮭は大好物。

93才になっても、箸を使って自分で食事ができる。普通食を食べる。入れ歯は昼夜も常に入っている状態で出すのを嫌がるが、朝1回だけ無理に出させて清掃することに。

ベッドでラジオを聞きながら横になっていることが多くなった。

ベッドと壁の間に挟まっているのを監視カメラで発見!

ある日、監視カメラで母の家の中を覗いてみると、母は何処にも居ない。電話をかけてみたが電話口には誰も来ない。ズームアップして空になっている母のベッドを見てみると、電話の呼び出し音が鳴るたびに何かが動くのが見える。毛布が引っ張られている?さらにズームアップしてよく見てみると母の足だけがベットと壁の間にチラッと見えた。母はベットと壁の間に落ちて動けなくなってしまっていたのだ。すぐに行って出してあげたが、大便を失禁していた。この後、ベッドの位置を修正し、母がこのように壁とベットの間に挟まらないように工夫したが、介護ベットはまだ入れていない。

廊下で倒れているのを監視カメラで発見!

また一ヶ月後のある日、母の姿が部屋の中に見あたらない。よく監視カメラの映像を見てみるとトイレの前の廊下で倒れているのを発見。すぐに行って起こしてあげる。意識もあり何所も痛くないとのこと、自分では起きられないのでじっとしていたらしい。失禁。

この時点から本格的にオムツ(パンツ型)の着用を開始する。​オムツは区の社会福祉協議会をとおして安く買えることがわかったが、この購入手続きに約一ヶ月間かかる。

無口になってくる。カーテンの開け閉めや草木の水やりをしなくなる。テレビは見ているが、オンオフを自分ではしなくなる。

両足に浮腫がでる。血栓予防用の医療用ハイソックス(弾性ストッキング)を1週間着用すると浮腫が治る。在宅マッサージも週3回始める。1回30分。自己負担額は1回400円

最後の長い言葉

94才、一日中何もしゃべらず無口になっていた母が、突然自分からしゃべり出した。「こうやって娘や息子にいろいろと世話してもらって本当に助かってる、自分はとても恵まれている」というようなことを。しかし、これを最後に自発的な長い言葉はしゃべらなくなる。

目は開いているが、こちらの言っていることが通じない状態になることが時々おこるようになった。まるで犬と話しているかのような感じ。こちらと目と目があっていても、こちらの言っていることが理解できない感じで、犬のように頭を斜めに傾けじっとこちらを見ている。「こっちに来て」、「これ持って」、「ここに座って」、といった簡単な言葉の意味が理解できていない感じ。床に横になっても自分一人では起き上がれなくなっている。歩行はまだ自力でできる。トイレにも自分で行く。

入れ歯の出し入れが自分だけではできなくなる。排尿便の処理を自分ですることが難しくなってくる。パンツ型オムツを履いて自分でトイレには行けていたが、トイレに排尿便をしてもめったに水洗の水を流さなくなる。トイレットペーパーを使った形跡もなく、トイレ以外の場所に大便をしてしまうことも時々起こるようになる。リビングルームのゴミ箱の中に大便、リビングルームの椅子の上に大便・・・

まるでリビング家具のように見える木製の電動トイレ椅子を購入した。

温水ワッシュレット式の定価10万円のところ保険適用で1割負担の1万円で購入できた。リビングルームに設置したが、もっぱら母がテレビを見るための椅子になってしまった。重くて安定性があり、母が体重をかけて摑まってまっても簡単には倒れない。リモコン付き。

 

 

 


 

 

94才の大晦日の夜、おせち料理を箸でつつきながら「ヨシユキはどこにいる?」と長男の名前を呼んで久しぶりに自発的に言葉を発した。しかし、これを最後に母はほとんど自発的に言葉を発しなくなる。「これ、食べる?」などと聞くと頭を縦にふったり横にふったりして反応することはあるが、日常で自分から言葉を口にすることをやめてしまう。

94才〜

母が話すことをやめてから

94才の暮れ、「ヨシユキどこにいる?」を最後に母はほとんど自発的には言葉を発しなくなった。

1月

新年になり、入れ歯の出し入れを嫌がるようになった。無理に入れ歯を入れると「ゲー」と吐き出してしまう。入れ歯は断念せざるをえなくなり、固形物を食べられなくなった。少しでも形がある物はすぐに口から出してしまうようになり、ミキサー食を開始せざるをえなくなった。

自分の誕生日も言えない。今自分が何所に居るのかもわからない。

要介護3の認定を受ける

毎朝、以下の食物をミキサーで混ぜて「スペシャル栄養ドリンク」を作る。

バナナ、リンゴ、柑橘類、小松菜、生卵、ヨーグルト、豆乳、オリープオイル、コラーゲンパウダー、そして季節の果物、いちご、もも、ぶどう、メロン、なども入れ、最後にエネーボという医師から処方された栄養ドリンクを混ぜる。​この栄養ドリンク250〜300ccを1日3回飲ます日課が始まった。アイスクリーム、プリン、ゼリー、ヤクルト、牛乳などもOK。

2月

に入ると、ほとんど1日中寝ていることが多くなった。自分ひとりでベットから起きて行動することがほとんどなくなった。転倒の心配がなくなった。

1日2回のヘルパーさん訪問がスタートする。午後1時頃と午後6時過ぎにヘルパーさんが母宅を訪問してくれて、母に栄養ドリンクを飲ませ、トイレへ誘導してくれ、あまった時間を一緒にテレビを見たり窓の外をながめたりしてくれる。1日2回ヘルパーさんとのゆったりした時間が流れる。一回のヘルパーさん訪問時間は30分。費用は自己負担分は1回300円。施設などにいたらヘルパーさんとのこんなにゆったりとした1対1の時間を過ごせる余裕はないような気がする。

 

 

​ヘルパーさんたちはほとんどが若い男性。心優しいイケメンの男性ヘルパーさんたちが入れ替わり立ち代わり母のもとを訪問して、優しい言葉をかけながらトイレ介助をし、食事のドリンクを飲ませ、口内ケアをしてくれているので、母は毎日2回のヘルパーさんの訪問を首を長くして待つようになった。

最初、介護ステーションから「女性ヘルパーが不足しているので、男性ヘルパーも介助に入ります」、と言われたときにはトイレ介助もあるので「母は嫌がるだろう」と思った。しかし始めてみると、母は男性ヘルパーさん達を嫌がることなく、むしろ女性ヘルパーさんよりも男性ヘルパーさんの方が気に入っているのが母の表情ですぐにわかった。

 

母はヘルパーさんたちによって生かされている。ヘルパーさんたちには本当に頭が下がる。皆さん気持ちが優しく、明るく、信念のある人たちである。このような人たちがいなかったら、この高齢化社会は成り立たないだろう。

 

 

 

 

ヘルパーさんの訪問と同時に開始したのが、訪問入浴サービス。バスタブを持ち込んでリビングルームで入浴をさせてくれる。見れば見るほど本当によく出来たシステムで、給湯と排水をポンプ付きの長いホースで行い、よくトレーニングされたスタッフが手際よく作業をこなし、一時間以内に設置から後片付けまで全部終えてしまう。

 

 

 

このサービスが入るようになって本当に私はいろいろと楽になった。1週間に1回のサービスだが、​ベッドのシーツも換えてくれるのには助かった。看護師さんが血圧や体温を計ってくれ、髪も洗って、爪も切ってくれる。このサービスの自己負担は1回につき1300円位だが、その価値は本当にあると思う。

この頃になると、全ての薬の投与を中止した。ここから先は月に1回の訪問診療の医師から処方されるのは、エネーボという栄養ドリンクだけになった。血液検査の結果も問題なく年相応とのこと。血圧も内蔵も異常なし。

 

 

 

3月〜4月、

昼も夜もほとんど寝ていることが多くなった。睡魔に宿られてるという感じで何をやっても眠いという様子。食べながら、歩きながら、トイレに座りながら寝てしまうことも。ほとんどいつも寝ているが、起こすと目をさましベッドから起き上がってトイレまで歩いて行けるのが不思議。そして食事の際には、ジュースの入ったコップを自分の手でしっかり持って飲むことできる。この頃は特製ジュースの他にプリンも自分でスプーンですくって食べることができた。

自分でベッドから起き上がることが完全にできなくなってしまったのかと思いきや、ある朝、自分一人でベッドから起き上がり、テレビの前に座っていたことがあった。それを監視カメラの映像で見て私は大変驚いた。母はテレビのスイッチを入れることができずに、ただ黒いモニタ画面を見つめていただけなので、私は遠隔操作でテレビをつけてあげた。母は何の驚きも無くテレビを見始めた。テレビは前に座ると自動的につくものだと思ったのかもしれない。映画「ローマの休日」を見せると真剣に2時間近くも眠らずに見ていた。「ローマの休日」は母の思い出深い大好きな映画なのだろう。ときどき見せてあげることにした。

この時期には自分でベッドから起き上がることが何回かあった。ある日の午後、ベッドから起き上がり、畳の部屋に行き、畳の上に悠々と横になっていたところをヘルパーさんに発見された。またある日は、ベッドから起き上がり、リングルームへ行き、籐椅子に座ろうとして椅子もろとも床に転んでいたところをヘルパーさんに発見された。一人で起き上がり、窓際に座り外の景色を眺めていたこともあり、台所でバナナを食べているのを監視カメラで発見した事もあった。

しかし6月以降には、自分でベッドから起き上がることは一度もなくなった。

5月〜6月、

トイレで多量の排便をした直後に意識を失うという事件があった。幸いにも私が見ている前で起こった事で、すぐに対処ができた。口からだらだらとよだれが流れ出した時には死んでしまったのではないかと思った。すぐに母の意識は戻り、後に残る異常な症状も無かったが、トイレで大量の排便直後に意識を失うということは、この後にも何回も起きることとなる。この最初の事件では、念のためにかかりつけ医に往診してもらい、バイタルが全て正常であることが確認された。排便時に血圧が急激に下がって意識を失うことは老人にはよくあることだそうだ。

5月の中頃から、嚥下機能の低下が目立ち始めた。ドリンクを口に入れても飲み込まないで口の中に貯めていることが多くなった。飲んですぐに嚥下しないことが多くなり、首や喉をさすり嚥下を促してやっとのことでコップ半分飲めるという状態が続いた。食事の量が激減し、体重が5キロ、10キロと減っていった。6月に入ると、ほとんど何も口から摂取できない日が1週間も続き、立てなくなるのも時間の問題だと諦めかけていたところ、少しづつ嚥下能力が回復していった。何も食べられない時でも、ヘルパーさんに誘導されて何とかトイレへは自力歩行を続けていた。歩けなくてベッドでオムツをかえてもらったのは数回だけ。

嚥下能力の回復は、​口腔リハビリを始めた効果に間違いない。母の嚥下能力が低下し始めてすぐに、在宅の口腔リハビリを始めた。STさんという口腔リハビリ専門の看護師さんが週1回訪問してくれるようになった。45分位かけてリハビリが行われる。舌を引っ張り出したり、上半身や口の中のマッサージをしたり、ほっぺたや喉に刺激を与えたり、いろいろな嚥下機能の回復に役立ちそうなことをやってくれる。母の若い頃に聞いていた懐メロ音楽を流しながら施術を行う。

 

口腔リハビリだけではなく、毎日のヘルパーさんたちも毎回の食事介助の際には口の中のクリーニングとマッサージをハミングッドという特殊なスポンジを使って施してくれた。その甲斐があって、母の嚥下機能は着実に回復していった。

7月〜8月

この時期、レンタルで介護用ベッドを導入した。ヘルパーさんに起こしてもらわなければ1日中ベットで寝ているという状態が続くようになったので、介護用の電動コントロールがついたベッドを導入した。日中はなるべく35〜45度くらいの角度をつけて座位に近い姿勢を保ち、就寝時は唾液の誤飲防止に15度位の角度をつけ頭を少し上げて寝かせる。

 

また、母は寝返りをあまりしなくなったので、床づれ防止用の電動マットも導入した。定期的に床のマットに電動でエアーが送られたり出されたりして、密着した背中の血流が滞らないように動かしてくれる。床づれ防止用具付きのいたれりつくせりの電動ベッドは一ヶ月のレンタル料は約2000円。もっと早くに導入しておけば良かったと思った。車椅子も借りているが、レンタル料は月300円。

 

要介護4の認定をうける

95才の誕生日をむかえることが出来た。

目標にしていた「95才の誕生日をむかえる」ことが達成できた!

誕生日も近くなった8月、時々ではあるが、「おはよう」「あ、そう」などの短い言葉を発するようになった。久しぶりに聞く母の声。午後にはベッドで起きている時間も増えた。ヘルパーさんを待っているようなそわそわした感じ。

9月〜10月

食欲がどんどん回復してきて、大便はバナナみたいに完璧なのが

トイレで出る。しかし週1回という便秘傾向だったので、排便の頻度を増やすために、週3回のマッサージ施術時に腸への刺激を追加してもらうことにした。すると、マッサージ効果はすぐに現れ、排便の頻度も週2〜3回となった。身体を動かすといえば、1日2回の介助によるトイレへの歩行だけなので、健康な排便を促すには腸へのマッサージは必要だ。

11月〜12月

母と親しい親戚の人が亡くなった。栄三さんの死。母に伝えようかどうしようか迷った末に伝えることにした。すると、大きな声を出して「えーどうして!」と言った。母はその日の日中は眠ることなくずっと目を開いて起きていた。次の日、覚えているかどうかわからなかったので、再び栄三さんの訃報を伝えると、前の日と同じくまた声を出して驚いた。3日目も同じ訃報を伝えてみたが、同じように声を出して驚いた。訃報は3回でやめた。それから一ヶ月後に同じ訃報を伝えると、前と同じような驚き方はしなかった。この訃報ショックをキッカケに母の食欲はどんどん増していった。

そんなある日、冬ぶどうで知られるスチューベンという葡萄が手に入る季節になったので、母が好きだったことを思い出して買ってきた。スペシャル栄養ドリンクに入れようと思ったのである。「これドリンクにいれるね」とベッドに寝ている母に見せたところ、母の手がのびてきて、葡萄を1粒とって口の中に入れてしまった。あっと言う間のできごとで、あっけにとられていると、母は葡萄の皮をちゃんと口から出した。そして次から次へと葡萄の粒を自分の手で口の中に入れては皮を出し、葡萄を食べ出した。あっと言う間に一房を食べてしまった。びっくり。それからスチューベンを求めて私の葡萄探しが始まりました。

1月〜3月

毎朝、スチューベン葡萄を一房近く食べた。東京のスーパーでスチューベンが買えなくなると、青森の農協に電話をしてスチューベンを送ってもらうようになり、3月いっぱいまでスチュ―ベンが確保された。この葡萄を食べるという行為は、母の嚥下能力の回復に大いに役に立ったようだ。自分の手で葡萄の粒を口に入れ、葡萄の中身と汁は飲み込み、皮は舌で出して手でつまんで捨てる、という行為をくり返すのは完璧な嚥下能力のリハビリだ。

 

毎日毎日3食ドリンクばかりで母は飽きないのか?毎朝ミキサーで作るスペシャルドリンクは、毎日微妙に味が違う。同じ味は二度と作れない。それが毎日飽きずに飲める秘訣だと思う。その時のバナナの熟成度の違い、柑橘類や林檎の種類の違い、オプションで入れる旬の果物の違い、その日の気分で入れる素材の量が微妙に異なるので毎日必ず違う味に出来あがる。味のアクセントで入れるカルピスも毎日違う味のものを入れる。苺、メロン、巨峰、もも、ラフランスなどいろいろな味のカルピスがある。カルピスの他に「ホットしょうが」や「ホットレモン」の素を入れたりもする。嚥下障害のある人は濃い味を好むらしいので、しっかりとした味をつけることにしている。今のところドリンクに飽きた様子はない。

飲み物のコップを300ミリリットルの大きく軽いプラスチック製にしたが、昼も夜も自力でコップ1杯を完食する日が続く。夏に比べて体重が3キロ増えていた。より栄養をつけるために最近はドリンクに40%以上の脂肪分がある生クリームを入れることにした。牛乳味が好きな母は生クリーム入ドリンクを美味しそうに飲んでいる。

食欲がある日が続くので、久しぶりに味噌汁(具なし)を飲ませてみたら、「美味しい」という母の声を久しぶりに聞いた。

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3月の終り頃、東京で桜が満開になった日曜日に、秋田から長男ヨシユキが訪ねてきて母を久しぶりに車椅子に乗せて外の散歩に連れ出してくれた。

 

 

 

 

 

​東京ではオムツを区で低価格で売ってくれる。電話かファックスで次の月分の注文を出すと、月初めに戸口まで配達してくれる。ほとんどのオムツ関連製品が通常の値段の5分の1以下で買える。最初はパンツ型のオムツを買って毎日1〜2枚とりかえていたが、尿とりパッドというものがあるとわかり、パンツ型のオムツと大小の尿とりパッドを併用するようにした。そうするとパンツは毎日取り替える必要はなくなり、コスト面でもエコ面でも良い。毎月のオムツと尿とりパッドの総コストは月額600〜800円。コンビニで支払う。

 

 

 

 

4月〜

ぶどうの季節が終わるのと母が葡萄に飽きるのが同時だった。桜が咲き終わって暖かくなってくると、母はまた睡魔に襲われる時間が多くなった。去年の春にも同じような状態が続いた。食べながら、歩きながら、何をしても睡魔に襲われて寝てしまうという状態。無理矢理起こせばドリンクは飲むが量は半分くらいに減った。トイレへの歩行もヘルパーさんの介助でかろうじて出来ている。このような状態にもかかわらず、驚くことが起こった。電動ベットに変わってから10ヶ月近く一度も自分一人でベットから起き上がったことがなかったが、4月のある日ベッドルームを覗くと、自分で起き上がってベッドの端にちょこんと座っていたのだ。まるで今にも立ち上がって歩き出しそうな雰囲気で、片方のソックスは脱いで。一日中寝てばかりいたのに、睡魔と睡魔の間に起こった不思議な光景だった。

 

 

顔というのは脳の状態を如実に表しているようだ。母の顔は大きく分けて2種類ある。

「カエル顔」と「ムンク顔」である。

「カエル顔」をしている時は脳が起きていて、声かけをしても反応を示し、飲み物を自分で飲むことができる。嚥下活動もしっかりできる。

 

 

「ムンク顔」をしている時は、たとえ目が開いていても寝息のような呼吸をしていて、声かけをしても​反応がない。飲み物を飲ませようとしても飲まない。無理矢理ひと口飲ませても口に溜めているだけで飲み込まない。

 

2018年6月

要介護5の認定をうける

介護認定は状態が変わらなくても半年おきくらいに再認定を受ける必要がある。前回とは違う認定士さんが訪問して母の状態を確認し、認定会議が開かれ認定度が決められた。母の状態は半年前とそうかわらない状態なので「4」の継続かと思われたが、以外にも今回は「5」に上げられてしまった。

 

しかし、そのおかげで介護サービスを少し増やすことが可能になったので、毎日のヘルパーさんが滞在する時間を少し長くすることが可能になった。午後の30分間の訪問を1時間に延長してもらった。母が飲み物を飲むスピードが最近落ちてきていたので、ヘルパーさんに一緒にいてもらえる時間を延ばすと飲む量も少し増えた。半分くらいは自分でコップを持って自力で飲み、あと半分はヘルパーさんに飲ませてもらっている。

 

母は、話すことも含めて全てのことが「面倒くさい」という感じになってきたので、この自力で飲むという行為も「面倒くさい」ということで、いつの日かギブアップするのかもしれない。とりあえず、今はまだ自分でコップを手に持って飲む。

​現在の母は薬は何も飲んでいない。自力で週2回は排便している。半年位前までは平均週1回程度の排便頻度だったが、週3回の訪問マッサージ時に腹部(大腸と小腸)のマッサージを定期的に受けるようになって排便頻度は改善された。訪問マッサージでは歩行訓練も行う。

 

ちょうど1年前の5〜7月は、嚥下能力が下がり食欲も落ちて95歳の誕生日をむかえらえるかどうかが微妙な日々が続いていたが、今年はそのような目立った能力の衰えも見られず、記録的な猛暑の中、もうあと少しで母の96歳の誕生日だ。

時々、母宅に泊りにやってくる次男は、母の言葉を引き出すのが上手い。最近はほとんど言葉を発しない母だが、言葉をまったく忘れてしまったというわけではなさそうだ。数週間前に、「何を飲む?林檎ジュース?レモンティー?ヤクルト?」と次男が聞くと、「何でもいい」と母がはっきり言葉を発して答えた。

 

普段はほとんどの場合はどんなに話しかけても何も言わない。何の要求も出さない。しかし、たまーに突然、いつもと違う脳スイッチがONになって言葉を発する一瞬がある。

2018年8月8日

96歳の誕生日

おめでとう!!

要介護5の母が一人暮らしを続けられる5つの理由:

1)一人で暮らす生活に慣れていた。

2)近くに家族が住んでいる。

3)様々な在宅介護サービスを利用できる

4)Wifi環境があり監視カメラがある。

5)冷暖房機器を遠隔で操作できる。

​​

8月の誕生日を過ぎて数週間たったある日の朝、

母が突然『ありがとう』と私に言った。母の口から出たのはその一言だけ。

朝食として2杯目のドリンクを飲ませようとした時であった。

この頃、あと2つ驚くことがあった。

 

一つ目。「ありがとう」と発した前の日、それは、在宅マッサージ師の方にベッドから起こしてもらい室内歩行のリハビリをしている時に起こった。いつものパターンは、介助を受けながらベッドから起き上がり、廊下やリビングルームをやっとのことで歩いて一周してベッドまで戻るという訓練である。板の間のリビングルームを介助を受けながら歩いていた最中に、母は突然立ち止まり、そばの壁に片手をついて片足立ちになり、自分の足の裏についている米粒ほどの小さな石ころを取ろうとしたのである。見てみると米粒の半分ほどの小石が足の裏にくっついていた。母の足の裏の敏感な神経にも驚いたが、片足で立って小石を自分で取ろうとした母の行動力やバランス力にも驚いた。もはや寝返りも自分でうてない要介護5の母が片足立ちをしたのである。

ニつ目。上記から数日後のことである。月に1〜2度往診にやってくるお医者さんが母の寝室に入って来た時にそれは起こった。同じ医師と男性の看護師さんに5年くらいずっとお世話になっている。母はそれまでぐっすり寝ていたにもかかわらず、お医者さんと看護師さんが部屋に入るやいなやガバっと起きて満面の笑みをたたえて挨拶したのである。言葉こそ出なかったが、口は大きく左右に上がって明るい笑みをたたえ、毛布は手ではね除け今にも起きて歩き出しそうな感じだった。その場にいた誰もが大変驚いた。私も久しぶりに母の「笑顔」を見た。

日本人の80%は「最後は自宅ですごしたい」と願っているそうである。しかし実現した人の割合は12.8%にすぎない。実現が難しいと多くの人が考える理由は、1)家族に負担がかかる 2)容態が急変したときに不安 3)経済的負担が大きい であるが、それらはすべて今の日本の介護現場の現状を知らない知識不足と誤解からきていると思う。

現在の日本の制度では、医療、看護、介護、などの多くの職種が連携して在宅ケアをサポートしてくれる。介護保険制度を使えば、それほど高額な費用を負担しなくても独居の老人や終末期患者が自宅で看取られることは可能である。ひと昔まえの「介護地獄」など今や避けて通ろうと思えば避けられるのである。

しかし、よく聞かれるのは「家に他人を上げたくない」とか「一人でやっていける」「人を雇うのはもったいない」と言っている独居老人たちの声である。私の母も90歳を越えても最初は掃除のヘルパーさんが来るのさえも拒絶した。しかしだんだんと身体の自由がきかなくなって、トイレや風呂場のそうじを自分でするのが困難になってくると、「他人」を受け入れざるを得なくなった。週1度の掃除にやってくるヘルパーさんが帰った後「なかなかいいもんだ」とポジティブな感想を述べるようになり「他人が家に上がる」のに徐々に慣れていった。(ここで家族が何でもやってあげるようになると、「他人」ではなく家族だけをたよるようになり、ヘルパーさんの導入が遅れることになる。)

またWi-Fiカメラを導入することによって、老人の状態の監視だけではなく、「他人を家に上げる」ことに関して少しハードルを低くすることができる。監視用のカメラを設置しているということは、担当の介護サービスの会社には事前にこちらから報告する義務がある。訪問して来るヘルパーさん達はこのカメラの存在を常に意識しながら仕事をしてもらっているのである。

これからの日本の介護において、独居老人の家族がするべきことは、実際のお世話という仕事ではなく、お世話をする人々やサービスを本人好みに手配してあげることだと私は思う。もちろん家族が実際のお世話をしたいのであれば、それはそれでやれば良いと思うし、やりたいだけやればいいと思う。それが「介護地獄」という歪なゆがんだ生活を生み出していない限りは。今の日本には、介護のやり方にもいろいろな選択肢があるということを忘れてはならないと思う。

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2018年秋の初物のスチューベンぶどうが
青森から届いた

母が去年のように自分でスチューベン葡萄に手を出してくれるのかどうか不安だったが、今年の10月に入ってから葡萄を見せるとすぐに反応し手を出した。しかし最初は5粒ほど自分で房からとって食べて皮を出しただけで終わった。以前のような勢いはなくなっていた。もうあまりスチューベン葡萄には執着を見せないのかと思いきや、数日後には31粒も食べた。面倒くさそうに。ただこの31粒のうち半分くらいは私が口に入れて食べさせた。ドリンク食のみで生きている母にとっては唯一の固形物の食べ物であるスチューベンは3月の終りまで手に入るはずである。

 

今年の葡萄を食べ始めて1ヶ月位たった11月末頃から葡萄を食べるペースがぐんと上がった。平均で毎朝40〜50粒は食べるようになった。それも全て自力で。朝食はこの葡萄と栄養ドリンク1杯。

96歳になった冬をむかえようとしている母は、去年の今頃と同じような状態を保っている。しいて言えば、ドリンクを自分で飲むペースが少し落ちたくらいであるが、飲む量はそれほど減っても増えてもいない。
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あいかわらず、若い男性のヘルパーさんたちと一緒に1日2回の楽しい時間を過ごしている。ベッドで就寝中に寝返りはうてないが、ヘルパーさんに起こされると起き上がることができる。身体を支えられてトイレまで歩行し、トイレで排便することもできる。トイレに行った後は支えられてリビングまで歩行し、窓際やテレビの前の椅子に30分以上座っていることができる。食事のドリンクは自力で飲むかヘルパーさんに飲ませてもらう。このようなヘルパーさんとの安らぎの時間は1日2回、昼に1時間、夜に30分ある。
 
母の一番好きなテレビ番組は「岩合光昭の猫のドキュメンタリー」で、過去に放送した分を50本近くも録画してあるので、いつもヘルパーさんと一緒に見ている。老人にとってはいろいろなカットをつなぎ複雑に編集した映像よりも、このドキュメンタリーのように1カメで撮影した編集なしの映像が続く方が見やすいようである。NHKの自転車で日本縦断する「とうちゃこ」なども人間目線のそのような1カメによる編集なしの単純なシーンが多いので母は気に入っているようだ。
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2019年が始まり、そろそろ春の気配が感じられる3月となった。この冬、母は1日一房のペースでスチューベン葡萄を自力で食べてきた。1〜2月は本当によく葡萄を食べた。体重も少し増え、去年の同じ頃よりも食欲がある。ヘルパーさんに起こされて居間で椅子に座って飲むドリンクも自力でちゃんとコップを手に持って毎回全量(300ml)を飲み干している。何かのきっかけで言葉をしゃべる回数も増えた。長いセンテンスはしゃべらない。ヘルパーさんも最近は母が言葉をよく口にすることに驚いているようだ。

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1日中ベッドで寝ているばかりの母ではあるが、1日2〜3回はヘルパーさんに介助してもらいベッドから起き上がり自分の足でしっかりと歩いてトイレに行く。大便はトイレですることが多い。

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ヘルパーさんに「いちに、いちに」と声をかけられて自分の足で歩く。リビングの窓の側に座って外を眺めたり、テレビの前の椅子に座って15分以上もテレビをみたりすることが出来る。

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母は現在は薬をいっさい飲んでいない。この冬は風邪もひかないし咳も痰も出ない。血圧も正常を保っている。しいていえば便秘ぎみだが、1週間何も便が出ないときはこのカゴメ「プルーンジュース」を1パック朝食がわりにエネーボと一緒に飲ますと、だいたいは午後に大量な軟便が出る。浣腸も下剤も必要がない。

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母は自分でコップを持って栄養ドリンクを自力で飲む。ガラスのコップは重たいので使用しない。コップは母が持ちやすい縦長で、重量が軽いプラスチック製のものを使用している。力を入れて握っても変形しないくらいの強度があるものが良い。

自分で口から栄養をとれる、ゴックンという嚥下が出来る状態を長く保ってもらいたい。

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大正生まれの母はあんこ好きである。最近の母の好物は「おしるこドリンク」。「井村屋のゆであずき」にそれと同量の水を加えミキサーで30秒ほど撹拌すると美味しい「おしるこドリンク」ができる。いろいろなゆであずき製品を試してみたが「井村屋」製が良い。というのもそれ以外の製品には人工でんぷんが添加されており、ミキサーで撹拌してしばらく冷蔵庫に入れておくとゼリーのようになり飲みにくくなってしまうのだ。この「おしるこドリンク」は自然のとろみもあり飲みやすいだけでなく、豆類の栄養素や繊維も豊富、適度の塩分も入っているので夏にはとても良いドリンク。

97歳になる2019年8月8日

 

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母は「おしるこドリンク」をよく飲み体重も増えてきた。お気に入りのヘルパーさんの時は通常のドリンク300mlに加え、おしるこドリンクを200〜300mlも飲む。気分のいい時はヘルパーさんにうながされて一言二言しゃべるらしい。ただ自分でコップを持つのを面倒くさがりヘルパーさんに飲ませてもらうことが多くなりがちである。1日2回(午後1時間、夕方30分のヘルパーさんとの時間はしっかり覚醒して、ベッドから起き上がり、トイレへ行き、飲み物を飲みながらテレビを見たり外を眺めたりしている。

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​月曜、水曜、金曜の朝は訪問マッサージがあり、全身のマッサージだけでなく部屋の中を歩き回って歩行訓練をしている。ここのところ調子が悪くて歩けないということはない。歩いて窓のそばに行って外の天気や景色を確認しているようだが、言葉は一言も発しない。

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8月のある日、トイレで大便をした後に失神しトイレの便器から右側に倒れ落ちてしまった。右側のおでこ、腕、手、足などにアザができたが骨折などにはならなかった。大便をした後に気を失うことがよくあるようなので、これからはトイレでは目を離さないようにとヘルパーさんにお願いした。

母は80代に入ってしばらくすると、それまで和室の畳の上で寝ていた習慣を変え、ベッドで寝るようになった。理由を聞くと「布団の上げ下ろしが面倒くさいから」とのこと。しかし、もっと後でわかったことは、床に寝て起き上がることが肉体的に一苦労になってきたからが大きな理由だとわかった。ベッドから起き上がる方がだんぜん楽である。災害避難所で床で寝起きをしている光景をよく見るが、お年寄りにはダンボールでもいいからベッドがあった方が寝起きしやすいのであろう。

​そのベッドも90代に入ると病院にあるような機能付きの電動ベッドに換えた。(レンタル料月額2000円)

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この冬は以前のように冬ぶどうを食べなくなったので、何か新しい物を飲まそうと「甘酒」を試してみると、驚くほどゴクゴク飲んだ。母は甘酒が好きだ。1%未満ではあるがアルコールも入っているので、飲んだあとは顔がほんのりと赤くなる。この冬は温めた甘酒を朝食として飲んでいる。

​「エネーボ」という缶入り栄養ドリンクは毎月往診に来るドクターに処方箋をもらって薬局で安く買うことができる。通常価格の10分の1の1缶20円。これは1日1缶ほどスペシャルドリンクに混ぜて飲んでいる。このような栄養ドリンクはいろいろな種類の商品が出ている。

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​数年前からスマホを使って、その日のヘルパーさんの介護内容を確認できるようになった。これは便利。母がどれだけドリンクを飲んだか、排泄したか、歩行状態、ヘルパーさんとどのような時間をすごしたかがわかる。ヘルパーさんは毎回の訪問の後にすぐ報告書をアップしてくれている。

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98歳! 

2020年8月8日

 

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​新型コロナの流行にもかかわらず、母は無事に98歳の誕生日をむかえることができた。本人には何の祝い事かさっぱりわからない様子。肌艶もよく猛暑にもかかわらず食欲も減退していない。

しかし、98才の誕生日の8月が過ぎ9月に入ると「大きな体調の変化」が起きてきた。

歩行が安定しなくなったのである。それまでは1日数回のトイレへの歩行はヘルパーさんによる手引きサポートをしてもらって問題なく自力でできていた。トイレへ入るときに通過しなければならない10センチほどの段差も難無く自力で上がり下りしていた。ところが、9月に入るとだんだんと歩行の仕方に安定性がなくなり、歩いている途中に膝が折れて転びそうになってしまったり、段差を上がれなくなることが多くなった。

まだ食欲の減退は見られない。

 

転ぶことを心配して、9月の終わり頃にトイレへの自力歩行は中止し、ベッドでオムツ替えをしてもらうことにした。それまで使用していたパンツ式のオムツからベッドで換え易いテープ式のオムツに初めて変更した。しかしヘルパーさんの介助でベッドから起き上がり少しは歩くことは出来るので、オムツ替えの後はリビングルームまでどうにか歩いて行き、テレビの前に座って食事のドリンクを飲ませてもらうこともある。歩行が困難な時はベッドで食事のドリンクを飲むこともある。

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​このところ食事ドリンクにプロテイン(たんぱく質)を追加して入れている。このバナナ味のパウダー状のプロテインには母に不足しているカリウムも入っているので毎回の食事に追加している。

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